親友の美穂子が癌と戦った記録ー
「ときたま、左足に激痛が走るんだ」行きつけのお好み焼き屋で飲みながら、親友の美穂子がポツンと言った。「何?何かした?」私は一応きいてみた。「わからない、外科に行ったけどわからないし、整体でマッサージしてもらっても痛みがとれない」全てはこの会話が始まりだった。その頃の私は全く病気の知識はなかった。なんのアドバイスもできなかった。それから二、三ヶ月後、美穂子から電話があった、電話口で泣いていた。「足の痛みは、内臓からきてるかもしれないと言われたから、内科へ行ってみたら、私、癌だって・・・」「ええー!!」私はとっさに「大丈夫だよ、美穂子、絶対治るから」と励ました。いきなり本人に告知するなんて・・・それにも驚いた。ようするに、左足の神経の所に癌の腫瘍がおいかぶさっていたから、足が痛かったのだ。それから美穂子は入院して手術をうけた。悪性の腫瘍はきれいに取れた。しかし、足は杖なしでは歩けなくなった。
美穂子の癌腫瘍は世界でも珍しい種類で、転移しやすいとてもたちの悪いものだった。一旦は退院したものの、すぐ転移が見つかり、再び入院、きつい抗がん剤治療。本当の戦いはこれからだった。美穂子は明るく心やさしい性格だったので誰からでも好かれていた。いるだけで周りの空気をあたたかくする人だった。私らは幼稚園から一緒で、お互い、一番の悩みを真っ先に相談し合う仲だった。一生の友達だと思ってた美穂子が死ぬなんて、ありえない!きっと奇跡が起こって美穂子は元気になる。なるに決まっている。と私は自分に言い聞かせた。美穂子も「癌に負けない、がんばる」と誓った。治療で髪の毛が抜けても、美穂子は明るく病院の人気者だった。お見舞いの友達が絶えることはなかった。自分が危篤になる直前まで、同じく入院患者の友達を励ましていた。
子供の頃から、美穂子はいつもあせっていた、時間を惜しむように何かあせって生活していた。色々と趣味を広げて、色んな事に挑戦していた。私は呑気に「もっとゆっくりやればいいのに」と思っていた。今思えば、本能のどこかで、自分が短命だとわかっていたのかもしれない。
美穂子は一度も「死にたくない」と泣く事はなかった。美穂子の日記帳には、家族や友人に対する感謝の言葉しかなかった。ある日、美穂子は私に言った「病気になったのが私でよかった、他の人(家族)だったら耐えられないから」今でもこのセリフは忘れられない。美穂子は本当に強い人だった。自分の事よりも両親のことを心配していた。美穂子の願いは通じた。美穂子が社会人なってすぐ、保険会社に勤めていた友人の頼みで、いやいや、しかたなく高額な生命保険に入ったのだ。それは一家の大黒柱が入るようなものだった・・・。もちろん保険に入った時は健康だった。美穂子が亡くなり、支払われた保険金は両親の生活を守ったのだ。美穂子の入院費などで、財産を無くしていた両親は、保険金を生活で必要な分だけ受取り、後は人の為に役にたつ所へ寄付をした。もちろん両親はお金よりも娘に生きてもらいたかったけれど、生きていくには多少のお金は必要である。意外な形で美穂子は、両親を守ったのだ。
医師から余命の宣告はなかった。世界でも珍しい癌腫瘍だったから、医師もわかりかねたのかもしれない。美穂子は約三年間、癌と戦い霊前へと旅たった。私は美穂子の最期には間に合わなかった。しかし、美穂子は家族に見守られ、ふーっと大きく息をはいて、安らかに永遠の眠りについた。全身に癌が転移していた患者とは思えない、奇跡のような安らかな最期だったらしい。今にも寝息が聞こえてきそうな、半眼半口の安らかな死に顔だった。顔は色も白くきれいだったので、口紅以外の化粧は必要なかった。亡くなる六日前、私が美穂子と最後に交わした言葉は「ありがとう、またね」だった。告別式のときも私はこの言葉をかけた。
美穂子の七回忌が終わってから、美穂子の両親は安心したようにあいついで亡くなった。(高齢であった為)あれから10年目の秋。美穂子の死によって、私の人生観は変わった。人はどのように亡くなったとしても、たとえ早かろうが、遅かろうが、それが問題ではなく、最期の一瞬が大事だ。最期の一瞬に、人生が総決算され結論が出るのだと思う。はたから見たら幸福な人生のようでも、不幸な人生のようでも、心こそ大事で、自分の心に嘘はつけないものである。その答えは顔に表われる。結局、人間は生きたようにしか死ねないのだと思った。
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